
楽しいみんなの写真 -とにかく撮る、flickrで見る。ソーシャルメディア時代の写真の撮り方・楽しみ方
- 作者: いしたにまさき,大山顕
- 出版社/メーカー: ビー・エヌ・エヌ新社
- 発売日: 2011/10/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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とってもおもしろい写真論の本を読みました。
大きく、前半と後半にわかれているんですけど、前半ももちろん面白くて興味深いレポートというか分析なんですけど、僕は後半の、とあるワークショップを通じての写真論にガツンとやられました。
で、この部分だけ二回読みました。一回目はもやもやしていたのですが、二回目読んだとき、あ、これは、子規のいうところの写生だな、と思いました。
といっても、この子規の「写生」というキーワードをちゃんと理解している人がどれくらいいるかというのは、僕はずっとあやしいと思って来ました。
いわく、「客観的」、「自然」、「ありのまま」とかとか。なかには、「写実主義」と混同している人もいるような気がします。
でも僕はなぜだかわからないけど、ずっとそうじゃないと思って来ましたし、でも、じゃあなんなんだと言われてもちょっとやっぱりわからないのでした。
でもこの本の後半部分を読んだとき、あ、これは写生だな、と思ったのです。ここに写生があったと。
まぁ、この読みが当たっているかどうかはわからないわけですが・・・。
しかし、ぼくの理解はこうです。
人というのは、「いい写真」を撮ろうとしがちです。なので、一方で写真の技術的な方面を磨こうとする人がいて、それがよくないのは、容易に手段と目的が転倒してしまうからです。また一方で、なんらかの「個性」みたいなものを目指そうとする人がいます。これまたよくないのは、これもやはり、容易に手段と目的が転倒してしまうからです。
実はこの2つは同じ理由でだめなんです。最終的に、技術が上がり、個性が出てくるのはいい。しかし、残念ながら、手段と目的を混同し、はじめから技術を上げることを目指したり、個性を出そうと目論んだりする試みは、うまくいきません。
なぜなら、これは以前に書いたことがあるような気がするのですが、オリジナリティのアポリア、オリジナリティの矛盾、ということにつながるからです。
これは、みんながオリジナリティを追求した結果、できたみんなのオリジナリティはなぜか似通ったものになってしまった。という皮肉です。似通ったオリジナリティはそもそもオリジナリティではありません。
昨今、みんながみんな、自分の子供だけは奇抜な、特別な、みんなとは違ったオリジナリティあふれる名前をつけようとして、却って似通ったDQNネームにあふれたこどもが多い理由がたぶんこれです。
人間というのは、そのものの見方、考え方というのが容易に固定してしまう生き物だと思います。
写生というのは、反対に、ぼくの考えでは、それを開放します。一旦、凝り固まった物の見方から離れて、物の見方を自由にします。するとそこにオリジナリティが生じる余地が生まれるのです。
アイデアを生み出すブレストなどでもそうなのですが、それには条件があって、子規も俳句をたくさんたくさん作ったと思うのですが、とにかくたくさんたくさん写真を撮ることが有効です。これに、実はデジカメが一役買っているのです。いくら撮ったって、どれだけ無駄なショットを撮ったって、意味のないようなものを撮ったっていいのですから。
もしかしたら、文章だってそうかも知れません。ブログを書くときの悩みの一番大きいものは「ネタがない」ということですが、それはもしかしたら、狙って、すごい文章を書いてやろう、と意気込んでいることが原因かもしれません。